30|TUE
今日も雨。別に打たれてはいないけれども、冷たい雨というよりは生温い雨。出勤日より二時間も早く起きて依頼のデザインの修正に手を付ける。まあ、時間的にみて修正のチャンスは一回だなあと思いつつ作業するが、やはり失敗、というか無理。それはフライヤーのデザイン依頼なのだけれども、表面はもう諦めて、裏面の作業に移る。で、メールで送られてきたデータをチェックしていると、わけがわからないものや、っていうか、まだ着てないやんというようなものがあり、もうええわとなってふて寝。起きて医者に。車中での手帳へのメモ。
「こう、例えば脳内にOSがインストールできたとして、で、デスクトップか何かで<思い出すと頭をかきむしりたくなるような記憶>で検索して出て来たデータを、もしも消去してしまったならば、何だか色々なアプリケーションが起動不全を起こしそうよね」
というような、まあ別にどうだって良いようなことを書き綴っていると、俺が使っているのはほぼ日手帳という手帳なのだが、それには毎日のページの下に様々の人の言葉が記載されていて、9月30日は、
おすすめの案だけを
プレゼンテーションするべきではありません。
「デザインしていない」というプレゼンをするなら、
「いかにもデザインをしています」
という案も作らないといけない。
<佐藤卓さんが『日常のデザイン』の中で>ほぼ日手帳2008 9月30日のページより
とあった。ここには非常に「大人」なモチベーションが持ち込まれている。なんというか……、そういう仕事、したいよ、ほんとは。上記の言葉は、つまり、第一の壁を超えた後の、仕事のことに関してのものである。
で、医者。先月は俺がどうしても行けなくて同居人に代わりに行ってもらったのだったが、客観が有意義に働いて、医者ともいつも以上に話し、自分の中でもこの病気との、振り返ってみれば三年以上の、付き合いの歴史を俯瞰でき、意義ある区切りを持てた。それから大阪にある医者に通院していることから、ついでに実家に帰省し、夕食と団欒。
九月も終わり。
29|MON
一日雨。とても半袖では外に出られない。
27日のことから。仕事のち、デザインの仕事のクライアントと会う。28日、仕事のち、『ダージリン急行』二回目の鑑賞。やっぱり冒頭三分で最高! 酒呑んで寝る。
本日。一日雨。午後から仕事。仕事のち、ダラダラしていたら日付が変わってしまった。
あーあ。明日休みなのにやらなきゃならんこといっぱいだよ。そのうえ雨だし。
それにしてもなんにも書く事ないなあ。
26|FRI
ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行』をDVDで観た。
喝采。一人で喝采。とりあえず、好きだこの映画。冒頭三分からトキメク。感動的なシーンは、スローモーションと音楽でキメちまえ。で、それが間違いなくキマってるんだから文句無しである。
SUPER BUTTER DOGと珈琲、それでミルクチョコレートを齧ってチルアウト。
ところで、何の脈略も無く、今日思ったことを書く。先ず、「実際にあった事は<実際にあった事>なのであり、それすらも、つまり現実すらも親切な編集を経たものでしか享受、享受というより、ただ、受け止める、受け止めようとすることができないってのはどういうことだよ!」。というのも、それはいわゆる「実際にあった話ブーム」に対して感じたことなのだけれども、細かい説明はすっとばすが、身の回りには色々なことが、どうしようもなく起きているんだよ、で、それと対面し続けてからが「話」だ。さぼってたら干涸びるぞ。ってか、フィクションの意味も価値もわからなくなってしまったのだろうか。フィクションなめんなよ。
で、左京区在住三年目も半ばを過ぎて。ここは別段好きじゃないと言いつつ、ここは静かに浸透してくるのだった。なぜだろうか、すごく自由な気がするのだ。意識して角度を変えて見れば、柔軟に変化する街。気分次第。鈍重に佇むニュータウンでも、郊外でも無い。それはそれで、弊害だと言ってしまうのは、ある種自意識過剰だな。
旅は目的を持って。そして別に一人で行く事に特別の意味は無いだろう。自分探しとかっていうのは、旅などしなくたってできるのだし、というか、旅がそれに効果を持つとは思えないのだ(旅に出た事はないから適当だけど)。
とにかくここに居るだけ。目的があれば、必要に応じてここを発つことに躊躇いは微塵も無い。
それにしても、今やってるデザインの仕事、いろいろ無茶苦茶だ。まあ、なんとなくわかってたけど。
いやあ、朝晩はもう寒いね。
24|WED
日記が大分滞った。例に依って、思い出しつつ。
19日の深夜、翌日が休日だということもあって『色即ぜねれいしょん』(著:みうらじゅん)を通読。20日は、たしかコーナンに行って、テレビ線やら洗濯機の給水パイプなんかを買ってきて、家で作業していた。そんなこんなで日は暮れてしまったのだと思う。21日、午後から仕事。すごい雨。で、久しぶりに体調ががくんと崩れて、22、23日は寝込んでいた。そんなわけでみなみ会館に『接吻』のアンコール上映も観に行けてはいない。
本日。体調がようやくほどほどに快復し、デザインの仕事に手を付ける。ババッとやる。
忙しいとか、やらなきゃならんことがある、ってことでエネルギーを摂取できる人がいるが、俺はもう、ほんっとにやることない、死ぬ程ひま、のほうが、体に合ってる。忙しさに憧憬を感じたことなど無い。これはもう、生まれながらで、死ぬまでそうなんだろうなあ、と思いつつ、テレビで麻生新内閣の顔ぶれなんかを見てると、いよいよやばいなあ、なんて思う。悪意のバトンリレーが、まずい人に渡っちゃったなあ。
押されても、引かれても、てこでも動かない。動くときは動く。それしか、今は思い浮かばない。
ここから深夜の追記。眠れないので雑記を少々。
雑記終わり。寝よう。
19|FRI
終日労働。同居人が仕事のために京都駅まで(我が家からは結構遠い。バイクでもちょっと遠いと思うくらい)毎朝往復しているのだが、それの足が24inchのママチャリなので、何とかしてやりたい気がし、ここ最近自転車を物色している。いろいろ考えて、先ずLOUIS GARNEAUのTR2にしようかと思ったのだったが、「街で乗る」と割り切るには中途半端な気もし、それから考えあぐねていたのだったが、助言もあってkhodaa bloomのCanaff CS2.4はどうだろうか、となる。ハブダイナモでLEDが付いているのが大きかった。ただ、今日、ブレーキワイヤーがフレーム内を通っているため交換が面倒では? という助言を受けて、自転車を持っていない俺は「ああ、そういうのもあるのか」と少し悩んだが、年に何度も変えるものでも無し、良いだろうと大体のところ決める。ただ、秋は自転車の新作シーズンのため、来年度モデルを見ずに買うのもなんだか、そんなに急いで決める必要もないだろう、というところがあるし、大体、金が無いということもあって、自転車屋で働き始めて四ヶ月、やはりもうしばらく自転車は我が家に無いだろう。早く自分の自転車が欲しい。
雨で来客が少なかったぶん肉体労働に精を出した日で、疲れて帰宅し、夕食にバイト先の人が釣りに行ったということでわけてもらった鯵を食う。それからバイクでぶらつくにはちょうど良い季節を素通りしてしまうとつまらないので、涼しい夜を徘徊。文庫を三冊購入。『ZAZEN BOYS4』はぐっと我慢。今月23日の夜に劇的傑作『接吻』のアンコール上映唯一のレイトショーがみなみ会館であるため、それの出費も考えて残りのしばらくは贅沢に活字を楽しまねばならない。金は持っていないが、馬鹿が煙草20本をその値段にしようと企む(まだやってんのかよ)金銭で、俺は贅沢極まりない活字を読む事ができる。その事に意味を持たせようとするわけだが、その時、頭の中では反抗という名のベクトルが強い水を放射しながらうねるホースのように不規則にゆがみ、何だかわからない気になって、それはただの勉強不足、考え足りない、考え過ぎってことはこの世にない、全くダメだが、とにかく気分は反抗的で、しかしまあ、矢印が暴れ回ってるのは馬鹿の所行だし、少し言葉を慎まねば、という気もしなくはない。
とどのつまり、自転車は欲しいが金が無くて、ただ、頂き物の鯵を美味しく食べることはでき、素晴らしいはずの活字を安価で入手し、俺はこうして日記を今書いている、ということは、在る。
18|THU
昨日のことになるが、3枚同時にAmazonに注文していた筒井康隆関連のCDの最後の一枚が届いた。その美しいジャケットのアートワークを右に掲載しているが、筒井康隆・原作、佐藤允彦・作・編曲の『デマ』という作品である。
当時の佐藤の発言が印象深いため引用する。
ちょうどこの頃、日本に3台しかないミニ・ムーグの1台を買いました。『デマ』にも使っています。コード進行に沿ったものから脱却していこうという時期でしたね。現代音楽の方でも、この前になりますけどカールハインツ・シュトックハウゼンとかジョン・ケージが革新的なことを始めましたよね。
『デマ』/佐藤允彦(LP版:1973年発売)2008年CD版発売時のライナーノーツより
カールハインツ・シュトックハウゼンとジョン・ケージ(いずれも故人)が「この前」に革新的なことを始めたと語られる。その当時の日本のこの音(超かっこ良いし、めちゃくちゃロックだ)が、今まで封印されていたとは。全く出会わせてくれた筒井さんに感謝。驚愕の知力と演奏力で表現されたこのようなものを真似るのは不可能だが、「これは凄い」と思って生まれた衝動を、運良く俺は今音響の仕事を一つ依頼されているため、表舞台に立たせることができるかもしれない。
しかしまあ、音作りを頼まれたりデザインワークを頼まれたりはするのだが、一番自信のある文筆業を頼まれることは一切無い。音やデザインに対しては、人々が軽薄な言葉を持ち過ぎたのだと思う。簡単に「良い」「悪い」を口にする。できる。の、わりに作れない。から、依頼。っていう。ところが、文章に関しては「良い」「悪い」を容易に口にできないうえに、人々は「あまり読めない」ようになっているから、そもそも「善し悪し」がわからないのだし、そうなれば当然、「良い文章を依頼する」ということも不可能であり、だからまあ、多々の雑誌などでも高品質の文章を目にできることは少ないという異常事態で、ってまあ、ただの傲慢で高飛車な発言になってしまうが、言いたいのは、サウンドにしろデザインにしろ、表象化される以前には、溢れかえる言葉がそこに「在った」ということである。表象した時、言葉はついに表面的に消失する。そうでなければならない。だから語らなければならない、話さなければならない。手のうちを、巧妙に披露したい。それを実践し続けたい。言葉の消失は、表現において一つの死だと断言しよう。
で、日記だが、昨日今日と労働労働。あと一週間で給料日。がんばれ。そういえば依頼されているデザインの仕事について詳細が一向に来ないが、大丈夫なのかしら。
深夜、中島らも『今夜、すべてのバーで』読了。恥ずかしながら初めて読む。しかし、文庫本ほど安くで楽しめるものも無い。
16|TUE
珍しく日記が5日も開いてしまった。特に忙しくて書けなかったというようなことではなくて、単に日記を書くことに興味を失っていた。
12日金曜日は、スケジュール帳を見るところに終日労働。それからは覚えていない。13日は珍しい土曜日の休日。ホームセンターなどをまわって雑貨を買う。写真はリサイクルショップで一目惚れし購入した赤い学習机の椅子。この買い物で完全に金欠。14日、終日労働。15日もまた終日労働。帰宅してすぐに寝た。
本日は午後から労働。その後、職場の人とラーメンを食いに行った。
まったくこれだけ働いているのにこれだけ金欠なのは不条理だよ。金のこと考えるの、面倒だから嫌なんだよ。
11|THU
昨日10日のことから。午後から仕事。夜、帰宅。デザインの仕事を二つ受けてしまったため、勘を鈍らせないように何かちょっとやろうと思い立ち、木ノ下歌舞伎のwebの一部を作成する。パッと作ったわりにはなかなか良い気がする。それから、同居人が麻雀に強い興味を示し出し、ネットで無料の麻雀ゲームをしていて、教えろというため指南しつつ遊んでいると深夜。
本日。昼にガバッと起きて洗濯し、素麺を食べて出勤。帰宅して雑用をし、岡本喜八『ああ爆弾』をDVDで。シャープ。そして抜群。ラストシーンめちゃ格好良い。って、喜八好きを自認していながら、恥ずかしながら未見であった喜八の代表作。『ダイナマイトどんどん』は観ているのに『ああ爆弾』を観ていなかったという。さらにAmazonに注文していた筒井康隆関連のCDが二枚届いたためジャケットを眺める。美麗なるアートワーク。筒井康隆の名作『家』のイメージはまさにこんな感じだ。
あ、そうそう。そういえば今日、徹子の部屋に大工哲弘さんが出演してらした。終わりかけを見ただけなのだけれども、京都音楽博覧会の時、MCで語ってらしたシャツを召されていた。何故、唄っているあの人はひたすらロックなんだろうなあ。語っているのを見ると、人の良いおじさんなのに。
深夜、所用でバイクで街を走り回っていたら、寒い寒い。八月末の気温の下がりから、「これは、九月に暑さをぶりかえしてくるのでは」と予想していたのだけれども、これはもう、このまま秋にクロスフェードなのだろうか。全く、よくわからない。
9|TUE
終日労働。帰宅後、DVDで映画を観る。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、21世紀の傑作。と、書きつつも、馬鹿でかい映画だから当然のこと思考はちっとも付いて来てはいないのだけれども、相変わらずポール・トーマス・アンダーソンだとも言えるし、何かを軽く飛び越えた相変わらずではないポール・トーマス・アンダーソンだとも思えるけれども、それはともかくちょっとやそっとぶん殴ったってびくともしないアメリカ製の代物。
やっぱり、意味のあるスピードはかっこいい。速さの再考。
8|MON
起床してからのほとんどの時間、職場に居たため何も書く事が無い。かといって、起床してからのほとんどの時間を遊びに費やしたって、家にいたって、書く事が無い日は書く事が無いのだと思う。
7|SUN
ぐだぐだと寝る。夜、前のバイト先の人たちと呑む。楽しかったなあ。
それで、なんだかとてもマクロな視点の考え事をしてしまい、一つの視線じゃすぐ鈍突き、だからあれこれ引っ張り出してみたけど、紆余曲折でここ何処、ってなっちゃって、どうせどこかに到達できる種類の話ではないから、ひとまずセーブして電源を落とす。
ただその過程で、自分が日記を書き続ける意図を把握できたところがあって、それは一つ、収穫か。
『風をあつめて』の歌詞を読もうと『風街ろまん』をラックから探してもなかなか見つからないので、あれえ、と思いつつも更に丹念に探し続け、妹に貸していたことを思い出してネットで検索した。すぐに出て来た。ただ、歌詞カードで読みたかったのだった。というか、歌詞カードで見ないと意味なかったんだなあ、意味、ってか、歌詞を読みたいという欲望じゃなくて、歌詞カード読みたいって欲望だったんだなあって、気付いて……。
風のように淀まない、取り留めのないくだらない文章で日記を埋められたらなあ。埋め続けられたらなあ。まったく、くだらないは難しい。そういえば、一つすごくくだらないことがあったけど、さすがに日記には書けねえなあ、というようなこと。これが書けたら、俺もなかなか……。まあ、どこかで誰かと猥談になったときに取っておこう。……ああ、『はいからはくち』超かっこいい。
6|SAT
午前に起き、パンを食べて出発。京都音楽博覧会。
やっぱりねえ、昨年に続き大工哲弘&カーペンターズには感動したよ。半端なことしてたら、大工さんのような顔にはなれないだろう。良い顔の大人になりたい。
他の出演者たちの音楽も存分に楽しむ。rei harakamiはちょっと厳しかったか。
海外の音楽家の演奏を聴くということには、同郷の人の音楽を聴くという行為と比べ、確実に一枚隔てた部分があって、それはつまり加えて一つの愉楽が含まれているということで、何かと言えば端的に錯覚的言葉の壁の破壊だが、その錯覚が生む風景の有り様はなにものにも代え難い。
昼はカレーを食べたね。夜は焼肉を御馳走になったね。同居人と妹と、楽しい時間を過ごした。
パフォーマーとしてのくるりは相当の域に達していると思った。ただまあ、どうしようもなくハイライトはあの時だったのだけれども。そこにいた人は知っている。いなかった人はネットで調べれば何があったのか知れる。情報を。今日の日記には、この画像を貼らずにはいられない。
夜、同居人に、江頭2:50が時折、首をぐにゃりと曲げ倒立のようなことをするポーズがあるでしょう? あれ、江頭2:50いわく「地球を持ち上げている状態」なんだって! と熱く語る。俺は純粋にその「言葉」に感動してしまったのだから仕方が無い。言葉は、せばめるためのものでは断じてなくて、どうしようもなくただひたすら広げるためだけに存在する。広がらないのは、言葉では無い。それ以外の何かだ。言葉をなめてる奴は顔がひん曲がるぜ。音が言葉を広げた。さらに音が言葉だった。演技や演出は、あってもなくても良い。言葉が言葉でさえあれば。誰も知らない速度で世界を変えられる。全てがっちり、ひっくるめてまるめて持ったふろしき包みからは何もこぼれ落とさない。
踊る身体/言葉で時間が/歪む/錯覚/否/体感は現実/それで結構/踊り続けて/燃えて/冷めて/強度増すのが言葉/さ/踊れ
どうして風を集めたのか、その理由は話すことじゃない。ただ、風をあつめて。
5|FRI
笠原和夫の『シナリオ骨法十箇条』(『映画はやくざなり』収録)、それと『リバーズ・エッジ』を再読して昨晩は寝た。『リバーズ・エッジ』に登場する若者たちは西暦2000年に24歳になる予定の若者たちだが、現在、つまり2008年で考えると32歳になっている予定の若者たちである。『リバーズ・エッジ』の若者たちは今、32歳だ。淡々と生を生きているのか、それともいよいよ逃げ場を失っているのか。
俺の実家は河川敷に近かった。淀川の、広い河川敷。数えきれないくらい通ったあの場所が、仮に無かったのだとしたら、それはおそろしい。河はなんだかわからないが、時々の色々をうやむやにしてくれた。八方ふさがりになっても、どうでも良くなっても、むしゃくしゃしても、それに、根源の不明な熱を帯びても河は静かに全てを流した。その作用が無ければ、一体どうなってしまっていたんだろう。俺も人並みに、10代の後半は気が狂っていた。静かに狂って行く過程での温度や湿度、色、空気と風を知っている。そして、誰が、自分のいる場所とは果てしなく距離のある場所で静かに狂っているのか、見てとれた。その驚愕のスローモーションも終わるのだから驚く。あの時、もう西暦は2000という数字を過去にしていて、「私たちは……」と、一体、「いつ」に「いくつ」になっているのかと想像すれば良いのか、誰も知らなかった。もう2000年は終わっていたのだった。河の流れも変わる。
今、はっとしたけれども、いつのまにか俺も、10代にした猥雑なあれこれを、静かに、ただそっと、どこか片隅にしまおうとしているようだ。あの時、我々はもっと、確実に、誰でもない誰かだった。それがいつのまにか、名前が増殖し、管理され、認識され、呼ばれるようになった。
ノストラダムスがだめで、ってなったらもう戦争だよ、っていうあれこれは、実のところ10代の俺だったらしっかり納得できていたと思う。だけど、そう血走った目でのたまう少年を力でねじ伏せることに、今の俺は罪悪感を持たないかも知れない。一体、これは、何だ!
なんか、若干日記としてはレッドゾーンな気がしてきたなあ。これはこれで置いておこう。
何か、上記のあれこれに関して言葉のある方は、是非メールして欲しい。
4|THU
ここ三日のこと。2、3と仕事。両日ともに体が重くて、ちょっと心配だったのだけれども、今日ひさしぶりに意識が朦朧としてほとんど倒れたみたいになる。職場は大丈夫だったろうか。ひどく申し訳ない。
金が無いくせに金よりも面白そうを優先して動いてしまう俺はせっかく声をかけてくれた仕事につれない返答をしてしまう。自分でいうのもあれだけど、面倒な奴だ。だから例えば、人として好きな人物が、何かを期待して俺に声をかけてくれたのだとすれば、事実今までもそうだったし、たぶんこれからもだが、金とは無縁の部分で全力を尽くすだろうし、尽くしたいわけだけれども、気が乗らないとてこでも動かない。今回は、微妙な感じの話だったので、どうしても金銭、時間、面白み、を天秤にかけることとなった。ある意味で、俺は優先させるべきものを確立させてしまっているから、それはつまり義務感や責任感というような言葉の持つ、あるつまらない側面を嫌悪しているからだが、そういった身体で動き続ければ当然、摩擦も多いわけで痛い目にもあわされるだろうけれども、ただ、そういった時助けてくれる人がまわりにいるだろうと楽観しているところもある。夏の終わりのイベント『鳥男PRESENTS VOL.1 水着のあとがやけにセクシー』の誰かにものを頼まれれば、きっと簡単にそれを受けるだろう。「オッケー」と軽く言ったあと、自分の中の時間と力と格闘する。「軽く」それをさせてくれるのは、どうしても金銭では無いのだ。「金が入る金が入る、ふんふーん」と踊れれば世の中とも仲良しだが、そうできない俺はやはりモラトリアムに逃げ込んでいると見るべきなのだろうか。その逃げ方を「格闘」だとかいった言葉を利用して簡易に正当化するつもりはないが、ただ、やっぱり自分の中の「正しい」に賭け続けたい。だからまだまだ俺は近くの人々に迷惑をかけ続けてしまうだろう。許して欲しい。
今は4日の深夜だが、体調はまだまだ悪い。いやだなあ。そういえば日記が滞っている間に、福田首相が辞めた。安倍首相からの暗黒のバトンリレーは続行中。そういうことはもう、どこか遠くの惑星で誰にも迷惑かけずやって欲しいな。あと、ニュースとして「Google Chrome」。Googleのやる事を考えると、表面化されている部分とは比べ物にならないくらい、その背後で多角的に動いている部分があることを想像させられて、それはかなりの刺激になるのだが、今回はどうなることやら。IE殺しみたいに言われている部分はあるけれども、そんなものはきっとカムフラージュでしかないのだし、Googleは信じられない規模の詰め将棋をしているのかもしれないから、とにかく気をつけないと。まあ……、と語ろうとして、言葉が暴走しそうな感触が肉体にあったためもうやめる。大体、体調悪いし。
1|MON
昨日、8月31日のことから。
午前中からスタジオに入り、三時間ほど楽器の稽古。終えて仮眠し、午後5時から最後の合同稽古。7時過ぎに終え、帰宅し、準備し、午後9時50分にイベントの会場であるBACK BEATに。非常に慌ただしいリハーサルを終えるともう開場の時刻。
それでまあ、色々なことが行われ、俺はぎりぎりまで悩んで結局出演者含め70人ほどの前で「浦島太郎を思い出しながら話す」という無茶なことをし、イベントは終わり、三角州で朝を迎えた。
本日。昼過ぎに起床し、洗濯を二回。家賃の振込など事務的なことに忙殺される。「浦島太郎を思い出しながら話す」という愚鈍な実験を行って、実験なのだからその果てを検証しようとするのだが、たぶん、もっと厳密なルールのもと行わなければならなかった実験だったため、というのも、実験としての純度が失われる小細工を、振り返ればやはり俺はあの時多々行っていて、つまり、理想よりレベルの低い検証をせねばならず、それはもう、検証というより反省なのだけれども、まあ、そんなことをぼんやりと思いつつ、金が無いという鋭利な刃物に刺されつつ、また同じ長さの一日が終わる。
思いのほかそのイベントは夏の終わりっぽかった。
以下、深夜の追記。人として圧倒的に面白いが故に、生み出すものもまた面白い、というのと、人としては面白いが、生み出すものはつまらない、そして、人としては決して「良い人」とは呼べないが、生み出すものはすこぶる面白い、という三つのパターンがある。一つ目と三つ目が、いわば天才と呼ばれる人の傾向だろう。一つ目の天才に関してはこれはもうどうしようもない天才だろうが、三つ目の天才は、小説なら小説、映画なら映画をこよなく愛してしまったが故の天才となる。二つ目は、いわば俗物寄りだから、幸せに生きるだろうけれども、作品は残せない。目の数が畸形の、幸せを剥奪された人が生む、迫力。意図的に目をつぶそうだとか、開眼しようとするのは二つ目のやること。ただ、二つ目の可能性として、一つ目、三つ目も当然のこと圧倒的視力を持っているだろうが、それに並ぶ視力を二つ目が保持したとき、おそらく事象を一番クリアに見ることができるだろうということが挙がる。ってか挙げたい。そしてそれは、批評における目なのでしょうか? ……いや、たぶん、違うんだろうなあ。こんなに浅くて短絡なことにはなってないんだろう。
九月である。給料が入って一週間も経たないが、もはや預金が百のくらいまでしかない。