2010. 5. 7|FRI

10年ほど前、俺は府立高専という学校の機械工学科に入学し、大量の難解な教科書(中には日本語で書かれていないものもあり、仮に日本語で書かれていても理解できないだろうにどうすれば良いのか、と。しかもたしか7,000円くらいする書物だった。腹が立って駄菓子のおまけのシールを貼ったのを覚えている)を買わされたが、その内容はまったく忘れてしまった。授業の内容で覚えているのは、数学の教師が黒板を数式で埋めては消し、埋めては消しを1時間続けて一つの数式を解き、その答えが零だったのをノートに書き写しながら、「あんなにいっぱいいろいろ書いたのにゼロなんや」と呆然としてしまったことと、「Ich spreche Deutsch nicht」という「私はドイツ語が話せません」という意味のドイツ語だけだ。
ではまあ、学校では大体ふざけていただけなのかというと、その通りなのだが、買わされたものの授業では使われなかった本が一冊だけあり、他のあまたの教科書は行方知れずだが、その一冊だけはまだ手元にあり、今でも時折読むし、当時もそれだけは自主的に読んでいた。木下是雄『理科系の作文技術』という本だ。
『理科系の作文技術』は29年前に初刷が出版され、俺の手元にあるものは40版、そして今もまだ増刷を続け、それほど大きくない本屋の棚でも目にすることができるベストセラーだ。
さて、一体なぜこんなことを書いているのか忘れてしまった。この調子で進めれば、俺は『理科系の作文技術』がいかに素晴らしい書物かを述べることになるが、まあ、あの、もちろん内容はそうなのだけれども、フォントとか印刷も好きで、まあ、なんだか綺麗だな、ってくらいで、特にその内容に触れるつもりは無く、今日の高橋源一郎のTwitterに登場した小島信夫の『残光』の話や、今日読んだ『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』の感想に繋げたかったのだけれども、そんなことは到底無理な話だ。それは初めから気が付いていた。それをある程度まともにやろうとするならば、たくさん執筆メモをとり、下書きを丁寧に、そして何度も書かねばならなかっただろう。でもこれは日記だし、そんなふうなことをしていたら次の日になっちゃうし、大体、お金ももらえないのにそんな重労働はしたくないのだった。
ではなぜ、上のような書き出しをしてしまったのか。答えは、それを知り、つまり、そんな大仰なことが簡単にはできないということを知り、ではその時俺は日記をどう終わらせるのか、それが知りたかったからだ。と、言ったもののそれは嘘。本当はただ単に日記を書きたかったからだ。さて、日記でも書こうか、と対面した時の気分、それが冒頭の文章になっただけのこと。そしてそういったことが連続して今ここにいる。だからここからどこにでも行ける。高橋源一郎がTwitterでTwitterの下書きはしない、と述べていたこと、そしてその理由として述べていたこととここまでの俺の日記との関連付け、または面白かった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』の文中にあった「顧客」という言葉の定義を、この日記において解釈すればどうなるか、さらには、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読むに至った直接的理由である筒井康隆の偽文士日碌の内容への言及をクッションに、筒井康隆の文章からいかに俺が影響を受けたか、そしてそれと『理科系の作文技術』から受けた影響を絡ませての論考、などなど。あ、そうだそうだ忘れていた、掲載の写真のことだが、などと話を飛ばしても良い。なんでも良い。もうここで閉じたって良い。俺はただ日記が書きたかっただけで、もっといえば何か文章が書きたかっただけで、それは既にそれなりの分量が書かれている。ご覧の通りだ。
ここでの俺の欲求の中心はコミュニケーションでは無い。文章が書きたいだけだ。毎日書きたいから、それが日記であることが都合が良いのだ。唯一、俺を縛るのは「文章」という言葉の持つ理不尽な力だけだ。こんな内容の日記を付ける気は全くなかったのに、こうなってしまったのは、全て「文章」という言葉のせいなのだ。誰かに何か言いたいわけではない。「顧客」は俺だけだ。
と、今日はこうなった。終わり。
