2010. 1. 13|WED
早朝からフライヤーの作業。注文していた『ペーター佐藤作品集 ポートフォリオ』が届く。色の参考にしようと思っていたのだったが、今回のフライヤーは使用する写真の特徴から、かけはなれてサイケデリックなものになった。
珍しくファッションの話をするが、普段はLevi’sにネルシャツかウエスタンシャツ、スニーカーに適当な上着を羽織っている俺だが、自分の着衣はさておき、ファッションには昔から興味がある。雑誌は男性誌で面白いものはなく、もっぱら女性誌が参考になるが、一昨年あたりから原宿的ともいえる色彩感覚(実際、原宿に足を向けたことはないので、紙面からの想像だが)が、まあ良い感じだろう、となってきたのは、それは音楽のゼロ年代初頭からの変容の傾向から察知しており(最先端はやはりいつも音楽なのだ)、そして去年はやたらカラフルなスニーカーが新発売されたが、はて次は? と思うと、ヴィヴィッドな色使いは生き残るとしても、その性質が微妙に変わってくるのではないかと考えている。まあ、今の街には少しはしゃいだキッチュが合うかもしれないが、色はペーター佐藤の色彩のように、カラフルにしても、テクスチャによってくすんでいくのではないかと。
そこで困惑するのは、じゃあ、スニーカーでいえば俺はいまFILAとかBROOKS、NEW BALANCE(1300、1500辺り)、中期AIR JORDANだとかと思っているのだが、バンバン売れるラインでは無いものの優れた作品たちだから人気は依然あり、少数復刻されてもすぐに売り切れ、非常に高価である(NEW BALANCEはまあ、仕方ないけど)。洋服も同じで、俺の思っているようなものは、セレクトショップに少数あるか、高価な古着屋、もしくは高級ブランドの一部ライン、と、どれも安価では入手しにくい。まあ、俺はどちらにしろ買わないから良いのだが(冒頭に書いた通り、ここ10年同じような格好なので)、果たして、流行による生産量の変化とその価格の上下の極端は、消費者に原因があるのか、それともメディアなのか。どちらにしても自分の首を締めている状況に変わりはない。微妙な不自由があって、それは流行(ファッション)が、即物的になり過ぎ、一辺倒になり、違和感を覚えれば(覚えて当然なのだが)マイノリティになるという、極端で不健全な状況だ。
これは洋服に限らず、その他様々な芸術にも言えることで、たとえば東京の優れたアシッドフォークの歌い手たちは何故にCDではなくCD-Rを売ることになるのか。優れた自主制作の映画に出演している人や監督はどうしてあんなに金が無いのか。表現においてもデフレな状況というのは確かに(ネット以降ずっと)あるが、とはいえシステムが一辺倒な資本の仕組みに左右されすぎではないだろうか。「早すぎた」とか「後に再評価」とか、昔から連綿とあるそういう悲劇はもう止めにして頂きたいが、現状はといえば「早すぎた」「後に再評価」に値する可能性のあるものたちも、どんどん墓場に追い込まれているといった惨状だ。
さて、終わりどころが無くなってきたので、適当にぶつ切りにするが、日記だった。フライヤーの暫定デザインをクライアントに見せ、その後稽古に。帰宅して早起きに目をこすりつつ、しまった、と『西山真来はなぜこうなってしまったのか』のブログ担当日だったことを思い出し、時間も無いし簡単なものを書こうとしたら筆がすべって混沌としたものを書いてしまう。
大体、こんな感じだろうか。寛平、がんばれ!
