12|SAT

2009. 12. 12|SAT

高架下

現在は13日未明である。朝まで眠ろうと、そして眠るだろうと思っていたのに深夜に目が醒めてしまったのだった。仕方無く、こうして日記を書いている。

さて、11日。午前中、京都造形芸大で入稿。帰宅し、稽古まで少し眠ろうと思うも眠り過ぎてしまう。

眠り過ぎた勢いで12日だが、朝から仕事。午後8時頃帰宅。長い一日だった。ずいぶん疲れていたので早々に眠ったのだったが、冒頭に書いた通り起きてしまった。『再履修 とっても恥ずかしゼミナール』を少し読み、飼い猫が外に出たがっているので出すと、思いのほか遠くへ、どこに行ったのかわからなくなって焦り、未明の近隣を駆けているとあっさり猫は戻って来、NHKでは物寂しい音楽をBGMに様々な蒸気機関車が映し出されていた。

「蒸気機関車って良いよね」と言われたら「うん」と賛同するだろう俺だが、なぜ賛同するのかと考えたところ、まあ、確かに見た目も嫌いではないし、鉄道という乗り物は好きだが、よくよく考えれば、蒸気機関車に乗車したことはないし、動いている現物を見た記憶も無い。第一、見た目も「嫌いではない」というか、「嫌いになる理由」が無いといっても良いくらいで、「好きか?」と問われればおぼろげに「うん」と言う気もするが、「本当に好き?」と迫られると、「いや、まあ、嫌いじゃないよ」となってしまう程度のそれである。で、何故こんなことを書いているのかというと、比較的広い圏内で、「良い」とすることで安易に消化されているものが多々あるな、と深夜の蒸気機関車から思ったからだ。その背景に安易な消費の繰り返しがあったことは簡単に想像できるが、とはいえ/だからこそ簡単に「良い」と言うのはなんだかなあ、と。俺の中で「蒸気機関車が良い」と言うことは、円滑にコミュニケーションを進めるために「良い」と言っている事と同意で、そもそも蒸気機関車にはあまり興味が無いんじゃないかと自問しているのだ。そしてそれは比較的楽観的に見て良い一例だが、ものによっては大変な欠落を及ぼしているものもあるのではないか、と。加えて、それの回避法として安易に「良い」を分解するというのも違うのではないか、と。

果たして蒸気機関車は「良い」のだろうか。もしかしたら良くは無いんじゃないか。っていうかこんなことを疑わすのは誰だ。