22|THU

2009. 10. 22|THU

団地

昼過ぎ、来客。ドアチャイムの音で目を覚ます。太郎とトミー。ただ遊びに来たという案配で、二時間ほどおしゃべり。26歳25歳24歳で大体、下品なことを話していた。トミーのためにあえていえば、下品な事を言っていたのは主に太郎だ。太郎と俺の今週の労働時間は二人合わせても10時間ほど。そして平日の昼間から下品な話をしてどうかとも思うが、だけど……、のあとに続く言葉は一切無い。NERDと書かれたTシャツの男とトミーが去り、風呂を浴びて外出。

初めて嵯峨芸大に行く。友人の展覧会を観に。写真を加工した作品の展示を観て思い出したのは、エリックという写真家の『中国好運』という写真集。エリックに関しては、特に操作されていないスナップの写真を撮るが、その写真のコントラストやピント(マニュアルで撮っているらしい)の機械的なまでの合い方などから、どこはかとない違和感とユーモアを感じるのだけれども、果たしてそれ(のようなこと)を作為的に行うとなれば、ずるいかというとそうではなくて、よりそれは困難を伴うこととなる。選択肢と選択項目が増えるからだ。

現実と現状に対してシビアな目を持っているか否かというのは、作品にあからさまに露呈するが、そのことから、弱いそれを「ぬるい」と糾弾するようなおせっかいはもはやしないし、ではそのことから何を思うかといえば、作品に宿る真摯な目から作家を想像し、その人となりに興味を持つということに尽きるということ。なんというか、結局はそうだろう、と。ああ、そりゃあそうだ、と。全部「人」の話。

このトピック、あの、今ちょっと眠いから雑にやるのもあれだしもうやめるが、果てしないな。

まあ、良い日だった。良い人たちと会った一日だった。

あ、戯れ言かもしれないが、「俺の言う、良い、は信用できるよ」と断言したい気持ちもあるが、とはいえ無責任に「良い」と言い放ちたい気持ちのほうがまだまだ強いし、そうであるべきに思う。「俺の言う、良い、は信用できるよ」と言わんとするのは、結局イチローのヒットへの執念と努力みたいなもので、つまりは、ルールの無い場所で記録は無意味だということである。