20|SAT

2009. 6. 20|SAT

ここのところ、日付が変わる前後に眠り、深夜3時くらいに目を覚ますことが多い。深夜3時というと「眠るべき」時間だから、起きても少しも活動的ではない。

21日/AM 3:00、1972年の作品、ジョージ・ロイ・ヒル監督『スローターハウス5』を観る。華々しく受賞しているわりにソフト化が進んでいなかったこの作品だが、そんな背景もあり、カルト色が強かったり、陰惨だったりするのかと懸念していたのだったが、無駄な取り越しだった。賛辞として、思いのほかヴォネガットの『スローターハウス5』だった。手触りや軽さ、緻密さやユーモアまで。良かった。

ここのところ、後藤明生の『挟み撃ち』を読み進めているのだが、さきほど観た『スローターハウス5』での、いや、映画ならすべからずそうに決まっているから『スローターハウス5』が特別では決して無く、単に『挟み撃ち』のせいだと思うが、そこにあった「衣服」への強い拘りに意識が向く。

上下ユニクロを着衣しながらこんなことを語るのはあれだが、俺は衣服への強いこだわりがある。いわゆる「おしゃれ」とは無関係な話だと思う。その証拠に、俺には髪型への拘りがほとんどない。長髪だと言われるほど伸び、しばらくは昔の漫画家のイメージ図のようにヘアバンドで前髪を捌き、それでもちょっとどうかと思うような風貌になってようやく理髪店に趣き、「短くしてください」と注文する。大抵、それは暑くなる前の時期だ。それからは気温が下がるとともに髪は伸び続ける。だから理髪するのは年に一度か、多くて二度である。話がそれたが、「衣服」に関しては、なぜ、それを着ているのか、という問いにすべからず答えられる状態でいたいというのがある。例えば、ズボンはLevi’sの606しかここ数年履いていない。なぜなら、サイズが合っていると思えるのがそれだけだからだ。下着がトランクスではなくボクサーブリーフなのは、サイズのあったジーンズを履くと、トランクスのようなゆとりのあるものだと、裾がクシャッとなるのが不快だから。靴はスニーカーだ。歩きやすい。時折Dr.Martensの8ホールも履くが、それは恥ずかしい理由として、中学の頃、「BLANKEY JET CITY」を聴いていて、歌詞の中に「ドクターマーチン」という単語があり、なんだろうと調べた結果それを知り、偶然金を持っていた時期だったからだ。あと、チェックのシャツばかり着ているが、これは、「なんでチェックなん?」とは聞かれない柄でありながら、例えば単色のシャツであれば目立つ皺などが、チェックの場合さほど目立たないからだ。

そんなふうな感じで15のころから服を買っているが、その趣向が変わらないため、若干25歳にして、10年以上着ている服も少なく無い。それだけ着てこその服だと俺は言いたいが、単に金が無いだけだという側面も強い。

話は飛ぶが、私が知る範囲での(それは誠に小さな)演劇公演では、いつもその衣装に落胆させられる。「記号」としてか、もしくは「引き算」としてしか扱われていないように感じるからだ。舞台美術より衣装に金をかけるべき芝居をたくさん観た。

と、ながながとのたまいながら、俺には「衣服」を思考するときの「核」が無い。文学と衣服の関係は言わずもがなである。何か読もうか。たしか菊地成孔の著書に音楽と服との関係性を書いたものがあったと思うが……。

オルタナティブな格好をしたい、という欲望は、オルタナティブな音楽をやりたいと思うのと同じくらい滑稽で不可能なことだと思う。

今日の日記、散り散りだな。なにがなんだか。