18|THU

2009. 6. 18|THU

踏切

夕立があった。

昨晩、コンビニに行こうと表へ出ると、最寄りの交差点にパトカーが四台も停車していて、警官が暴れている人を取り押さえていた。

騒動を横目に帰宅してテレビを点けると、野生動物のドキュメンタリーを放映していて、象とライオンが死闘をしたり、名前のわからない草食動物の群れが、草原での自然発火から逃げるために全速力で走ったりしていた。他にも、北極のキツネが子供たちのために、くちばしの長い鳥の卵を奪ったり、ペンギンが必死で子供を寒さから守ったりしていた。

家の猫は仰向けに眠りこけ、腹を揉んでも無反応だった。

臓器移植法改正4法案のうち、脳死を人の死とするいわゆるA案が可決された。それが世界基準だという。たとえば妻が脳死となり、旦那が同意すれば妻の臓器が移植されるという状況が訪れるとする。旦那は、「なんだか嫌だ」と移植を拒否する。「なんだか嫌だ、で解決されることではない。人の命が救われるかもしれないのだぞ」と強い語気で言われた時を想像すれば、いったいなんという不幸か、と思う。もちろん、拒否は可能だ。すれば、「無意味」な罪悪感が彼を終世苛むだろう。そして同意しても必ず何かしこりが残る。「死んだ妻はどう思っているだろう」と途方も無いことを思う。加えてその死んだ妻に対しては、「夫をこれだけ悩ませるのだから、生前に自分の意思を明白にしておくべきだった」という恐ろしい言葉が死んでいるにも関わらず投げられるかもしれない。どうやらそれが世界基準なのである。

「そんな情緒的、感情的考えでは進歩が無い」と言われれば、「それならいっそみんな死んじゃえば良いのに」と、言葉が口を出そうになるが、つぐみ、さらに進歩とは何かというような問いも慎み、まだ生きている妻を横に、高圧的な問いを発する者を前に旦那は「まだ妻は死んでいないので、実際どうするかはわかりません」と言った。そして際限なく新たな問いが投げかけられるか、嘲笑されるか、どちらかの状況が彼を覆うのだった。

しかし、その状態を回避することは実は簡単なのだった。何しろ妻はまだ生きている。適当に受け流せば良いのだった。

今現在、このことに関して世界基準への同意を声を大にして表明できる人は、「適当に受け流している」か、もしくは背中に「目に見える」ナイフを突きつけられているかのどちらかの状態でしかない。そして、「適当に受け流している人」とは、実のところ、「目に見えない」ナイフを突きつけられている人だと俺は思う。

ってこう書いちゃうと、必然的に書かなきゃいけないことが膨れ上がってきちゃった。とはいえ書けば書く程いろいろがぼやけてしまうだろう。「日記」には宙ぶらりを寛容する性質があるし、それによる効能も考えられるが……って、ほら、日記の話になってきちゃった。停止。中断。明日につづく。