2009. 3. 15|SUN
昨日、14日土曜日は、体調不良もあって大体寝てしまった。
本日。朝5時頃に目覚め、少し本を読み、働きに出る。ご存知のように私は昨年の梅雨ごろから自転車屋さんで働いている(体調不良もあって冬は休んでいた)が、前の仕事(映像編集)に比べて給与は格段に低いし、めちゃくちゃ大変だ。今日も自転車は70〜80台は売れたと思う。自転車を買う人の列ができるわけで、そんな状態が存在するとは今まで知らなかった。ただ、まあ、病のためにも体を動かすべきだったし、簡単な修理ならできるから、困ってやってきた人を満足させることもでき、それは精神衛生上とても良い。職場の方々もとても良い人たちだ。
終日働いていたから、バイトのことに触れるくらいしか書く事がない。
あ、そうだ、もう施行の近い裁判員制度について少し書こう。
御存知のように、間もなく「裁判員制度」というのが始まってしまう。で、もし私たちが裁判員になってしまうと、迫られる選択は、被告への「死刑もしくは無期懲役」になるのだという。つまりは、それらしか選択肢の無い重罪を裁かなくてはならないのだという。加えて、この制度の先進国アメリカと違う点に、守秘義務が生涯に渡ってまとわりつくという。
さて、である。俺は嫌だよ。端的に嫌でしかない。声を大にして嫌だと言いたい。死刑が視野に入っている事件の詳細を聞かされるわけだが、それまつまり、大層残虐なものになるだろう。そして、それを死ぬまで黙っていなけりゃならないし、もちろん、裁かなくてはならないのだ。そんなの、嫌に決まっているじゃないか。今、俺が考えているのは、裁判員制度に関しては限りなく無知だが、それでもって軽薄に考えているのは、もし裁判員として招致されてしまったら、「俺は、その件に関して、可能な限り軽い刑を、提示する」ということだ。これはかなり固い。仮に、家族や恋人が殺されたとしよう。それも酷い内容によって。だとしても、俺はそれが「死刑 or 無期」ならば、無期を選ぶ。これはかなり固いのだ。絶対に「死刑」は提示しない。それは「ある程度」を超えそうになるなら、思考を停止させるという意思だ。逃避に過ぎないし、単なる自己防衛としてそれを宣言する。それに、そもそも、「私」が、合法的に人に「死を与える」という状態が、全く持って理解できないのだ。なぜ、そんなことをしなければならないのか。このことについてはきっと議論は溢れ、そして片手落ちの正論が溢れているだろう。そんな論理はどうだって良い。嫌なんだ俺は。
「裁判員制度」に関しての思い、その1はこのようなもの。今後、どうアップデートされていくだろうか。
そういえば、一時間の運動は抗うつ剤一錠の効用があると聞いたことがあるが、今日10時間労働した私はその間、煙草を喫わなかった。これは単に、俺が中毒を持った喫煙者でないということもあるだろうが、運動の効果が大きいのだろう。で、健康を感じ、疲労困憊で帰宅すると正直、裁判員制度のことなんかどうだって良いや、ってなっちゃうふしがあった。「その感じ」を否定するつもりは毛頭ないが、とはいえ、それは私が「畏怖」する状態ではある。
気分っていうのは、外因によって左右されることがほとんどだ。だから、気分や、思考はある種「運」に左右されるということになる。つまり、ぶれまくる。その時、ぶれるのは仕方がないが、ぶれ方、ぶれ幅、それらは制御されねばならない。じゃないと、前進は困難だ。堂々巡りの人生は嫌だよ。
絶対に逃れられない「嫌」からいかに脱却するか、それが人生だ。そして最期は死ぬ。ってなんだ今日の日記。もうやめよう。大体、疲労困憊なんだ。
