2009. 2. 26|THU
久しぶりの晴天。昼に京都市美術館に。京都造形芸大の卒展が催されていて、そこで以前、俺が音響をやったパフォーマンスの変形バージョンが演じられることから、来訪。
ついでに全体を観て回る。自分はどんどん「美術」に興味を失っていると感ずる。
俺が音楽を提供したパフォーマンスは面白かったが、せっかくならもっととことん観てもらえる状態を作れば良いのになあ、と思いもし、ただ、俺も在籍していた母校の映像・舞台芸術学科の生徒というのは、そういったプロデュース面において、まったく無頓着だから、まあ、仕方無いというほかない。
昼食として、「グリル子宝」に初めて来店。ナイスオムライス。
帰宅し、デザインの仕事の作業を少し。
『死の谷’95』読了。これ、読みながら、そして読み終えてもなお終始感じていたことに、「俺、たぶん、これ読めてないんだろうなあ」という感触がある。読み終えて思うならまだしも、読みながらそれを思うというのはつまり、自身に決定的に何らかの論考が欠けているということを自覚しているのだと思う。読み飛ばしてでも読みこぼしでもなく、読めていない気がしたのだ。ただ、もしかすれば、これは「読めてないんだろうなあ」と思いながら読む小説なのかもしれない、という気も、全くしないわけではない。で、「読めてないんだろうなあ」という思いを抜きに感想を率直に言うと、ある程度、早く読める文体だが、時折その文体の美を崩すひっかかりが、はずしている気がしてしまう。お笑いでいう、すべっている状態に近い。ただ、それもまた、「ただすべっている」のでは無いのでは? と疑いながら読んでいたが、読み終えても答えは無い。あと、ハードボイルドな会話が、好きなのはわかるけど、矢作俊彦のクオリティの低い模倣にしか感じられない。これもなあ、俺がそう感ずるくらいだから、確信犯なのではないかとも思うのだが、結局はつまり、体質的な部分の抵抗が、そこの判断を鈍らせる。というのも、過去何作か青山真治の小説は読んでいるが、どれもその文章を好きになれないところがあるし、今は無き彼のblogの文章から、ほんとうに「ただすべっている」だけの可能性も俺には否定しにくいからだ。
ただやはり、それは結局、「「読めてないんだろうなあ」という思いを抜き」にしてのものでしかなく、肝心なのは「読めてないんだろうなあ」の不安感というか、闇というか、謎だ。何か光を見るには、彼の著作を読み続けるほか思い浮かばない。
夜、chikinと森山さんと会食。楽しかったな。昔の話をする、という行為のことを今度真剣に考えてみようと思う。
